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2008年2月20日 (水)

互いに旅立ち 母へ

私が小さい頃、よくセーターを編んでだ母、毛糸ほぐしの手伝いで、丸い束になっている毛糸の輪の中に両腕を入れるようにして前に出し、少し離れたところで母が毛糸を引いて山になるようにおろしていく。

腕がだるくなっていって「疲れた」「もうちょっと」なんて言ったりしながら、何本かほぐし、それを機械の編み機に通して、編んでいく。近所の人からもしょっちゅう頼まれて、ずいぶん安く作ってあげてたようだった。できあがったセーターをとりに来た人が「そんなに安くていいんですか」と驚いてたのを思い出す。

まだ小学生にもなってなかったある日、泊まりに来てた親戚が帰るので、バスで母と駅まで送っていった帰り、寂しい気持ちで歩いて家に戻ってくる途中、起きた出来事。 下り坂のところ、足がすくんだようになって、道路の下を横切っている川に足が向かっていくのを止められず、はっと思った瞬間にそっちは危ないよ、と手を握ってくれた。母が気がついてくれなかったら間違いなく川に落ちていただろう。

中学校の卒業式で、私が総代に立ったことを、内心は喜んでいるようだった母。高校生の時に、毎日作ってもらってた弁当。部活で朝、どんなに早起きの日でも、その前には起きてて、朝ごはんや弁当を作ってくれていた。目玉焼きや肉が入っていて、とてもおいしかった。

大学に入って東京住まいで、いっしょに上京、近くの商店街に行ったり、翌日は大学までいった。九段下で降りて靖国神社の大きな鳥居をくぐってお参りに、その時そこがどういう神社なのかはよく知らないでいた。月見そばだったか食べた思い出が残ってる。

今の店に従事して、まったく休みが取れないままきてしまっていたけれど、13年ぶりだったかな、帰省した時、家の中も回りも変わってしまっていたけれども、いつまで子供だと思っているのか、お金をくれた。次の年にも帰ったけれども、母はまだまだ元気だった。

体が弱ってきて、食事もできなくなってきたというのに、入院を断っていたらしいけど、それが母のやさしさと遠慮の表現だったのだろう、15年やってきた店に別れを告げ、新しい店に行く間のわずかに与えられた休みの日に、今からまさに会いに行くよと出かけようとした矢先の訃報、まるでこの時空を見計らっていたようだった。

家に到着すると、すでに棺に入ってしまっていた母、冷たくなった額と頬、薄化粧をしたその顔はまるで2年前に亡くなった姉にそっくりだった。そして財布の中には、私の高校生の時の顔写真が2枚入っていたという。1枚は私が預かり、もう1枚は棺の中の母の胸に納めました。

母の旅立ち、私の新しい門出を見守って欲しいとか、手心を加えて欲しいなんて言うつもりはないけれども、ただ見つめていてくれればそれでいい。私は地上から、母を見つめています。

高齢であっても、思考はいつもしっかりしていたし、やさしかった母、何十年ぶりで帰省しても元気で迎えてくれたけれども、これからはいつどこへ行っても会えなくなってしまったね。私の心の中で、ずっと生き続けていてもらえるように、明かりを絶やさず灯し続けていきます。

これからも宜しく。
母へ

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